天下統一を果たした豊臣秀吉が造営し、
文禄3年(1594)に完成された
最初の伏見城である指月城。
この跡地と見られる場所から、
多くの金箔を施した瓦や、大規模な石垣が
見つかりました。
伏見指月城は、
明確な遺構が見つかっていなかったため、
これまでは所在すらつかめていない
「幻の城」とされてきましたが、
今回の遺構の発掘は
その存在を決定付ける
極めて重要な発見とされています。
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伏見城をめぐる歴史
平安時代から、月見の名所としても
知られていた京都・伏見。
伏見城の歴史は、
豊臣秀吉による隠居屋敷が始まりで、
1594年に豊臣秀吉がその屋敷を
伏見指月城として、
本格的な城郭に改めたとしています。
しかし城が完成されてから
2年後の1596年、
慶長大地震が発生し、城は倒壊。
その後は城地を木幡山に移して再建されるも、
伏見の戦いで焼失。
また、徳川家康によって再建されますが、
1600年の関が原の戦いで城の大半が焼失しました。
さらにその後、家康は1602年に伏見城を再建、
1619年に廃城となりました。
元禄時代のころまでに桃の木が植えられたことで、
この地は桃山と呼ばれ、
城も伏見桃山城と呼ばれるようになりました。
跡地は明治天皇伏見桃山陵となり、
1964年、木幡山城跡地の一角に、
模擬天守閣が建てられました。
伏見指月城についてはこれまで、
金箔瓦は出土されるも、
決定的な遺構は見つかっておらず、
資料が少なかったために
実は存在していなかった、との説もあり
「幻の城」とされてきました。
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発見された遺構、大阪城・聚楽第に酷似
民間調査会社・京都平安文化財は、18日
伏見指月城の跡地と見られる、
京都市伏見区のマンション建設予定地から
大規模な石垣や堀跡、金箔瓦片が100個以上
見つかったと発表。
見つかった石垣は、
長辺1メートル前後の花崗(かこう)岩などで構成され、
南北36メートルにわたって、2・3段分が残っていました。
積み方は、自然石を野積みのようにしていた
初期の大坂城本丸跡や
洛中の聚楽第(じゅらくだい)跡の工法と
様式が酷似しています。
石垣の西側には、最大幅7メートル、
深さ3メートルの堀の跡も見つかっています。
また、今回出土した瓦についても、
大阪城などで見つかった瓦と
文様が酷似しており、豊臣家の家紋「五七の桐」が
刻まれていました。
きらびやかな装飾の、豪華な城だったことがわかり、
伏見指月城が政治的な意味を持っていたことが
うかがえます。
専門家は大阪城・聚楽第に続く、
秀吉の城作りの変遷を知ることができる
貴重な発見、としています。