エベレスト登頂中に凍傷で
両手の指9本を失った登山家・
栗城史多さん。
それでもなお登山を続け、
いまだエベレストに挑戦を続ける
ことをやめません。
無酸素での単独登頂という独自ルールを
自らに課し、無謀と言われながらも
山を登り続ける…
栗城さんの原動力とは一体
何なのでしょうか?
Sponsored Link
「冒険の共有」がテーマ
栗城史多さんは1982年、北海道で産まれました。
「冒険の共有」をテーマとして、2009年からは
登山中にインターネット生中継を行っています。
見えない山を登るすべての人への応援をこめて、
「冒険の共有」を続ける栗城さん。
また、年に1、2回ヒマラヤ地域の登山活動と
ともに全国での講演活動を行っています。
栗城史多 登頂の歴史
2004年6月 | マッキンリー6194m単独登頂 |
2005年1月 | アコンカグア6959m単独登頂 (ポーランド氷河ルート) |
2005年6月 | エルブルース5642m単独登頂 |
2005年10月 | キリマンジャロ5895m単独登頂 |
2006年10月 | カルステンツ ピラミッド4884m単独登頂 |
2007年5月 | チョ・オユー8201m単独・無酸素登頂 7500m地点からスキー滑降 |
2007年12月 | ビンソンマシフ4892m単独登頂 |
2008年10月 | マナスル8163m単独・無酸素登頂 山頂直下からスキー滑降 |
2009年5月 | ダウラギリ8167m単独・無酸素登頂 6500m地点から生中継に成功 6500m地点からスキー滑降 |
2009年9月 | エベレスト北側8848m メスナールート7950m地点まで |
2010年5月 | アンナプルナ8091m 7700m地点まで |
2010年10月 | エベレスト8848m 7550m地点まで |
2011年5月 | シシャパンマ南西壁8027m 7600m地点まで |
2011年10月 | エベレスト8848m サウスクロワールルート7800m地点まで |
2012年6月 | シシャパンマ南西壁8027m 6500m付近から滑落したが生還 |
2012年10月 | エベレスト8848m 西陵ホーンバインクーロワール8070m地点まで |
2014年7月 | ブロードピーク8047m単独・無酸素登頂 |
Sponsored Link
栗城史多の登山独自ルール
栗城さんは自らの登山に独自ルールを設けており、
その内容は
「ベースキャンプからひとりで登る」単独
「8000m以上の高峰に酸素ボンベを用いずに登る」無酸素
となっています。
このルールは登山界の常識を打ち破るものでしたが、
「無謀な挑戦だ」との批判的な意見も。
しかし栗城さんは己が定めたルールに則り、日夜
トレーニングに励んで登山活動を続けています。
エベレストで失った指
2012年、4度目のエベレスト登頂に挑戦した栗城さん。
6400m地点で一部の指が凍傷になっていたにも
関わらず、登山を続行。
しかし最終アタックに失敗し、凍傷を悪化させ
ヘリコプターで救助されたのちカトマンズの
病院へと搬送されました。
そして待っていたのは辛い現実。
凍傷にかかった指の回復は思わしくなく、
最終的に9本の指を切断することになりました。
背中を押した父の言葉
指を失ってしまった栗城さん。
誰もが同情や悲しみの感情を向ける中、
父親だけは違いました。
指の切断を告げた栗城さんに対し、
「おめでとう」と声をかけたのです。
その理由は、「生きて帰ってこられたこと」そして
「この苦しみを背負ってまた山に向かえること」へのお祝い。
栗城さんが大学3年生の時にマッキンリーに
登ろうとした時にも、周囲が反対する中
ひとりだけ栗城さんを信じてくれた父親は、
栗城さんの登山活動に大きな影響を与えた
人物であることは間違いないでしょう。
これからも死ぬまで挑戦を続けるという栗城さん。
先日9月7日にはエベレストのベースキャンプに到着し、
16日の再登頂&生中継に向けて準備が進行中です。
次は私達にどんな景色を、挑戦を見せてくれるのでしょうか?