7月11日、任天堂の社長、岩田聡さんが
胆管腫瘍のため、息を引き取られました。
55歳でした。
2002年に42歳の若さで任天堂の社長に就任、
「ニンテンドーDS」や「Wii」を発表するなど、
その斬新なアイデアが幅広い世代からの支持を受け、
国内外で新たにゲームを始めるファンを獲得。
2009年3月期には同社を、過去最高となる
1兆円を超える売上高、純利益に導きました。
以前、ご自身のことを「私の名刺には社長と
書かれていますが、頭の中はゲーム開発者です。
しかし、心はゲーマーです」と語っていた
根っからのゲーム好き。
多くの方に慕われる、ゲーム界の天才、
その生涯をご紹介したいと思います。
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電卓から始まった偉業
少年時代の岩田さんは北海道札幌で暮らす高校生。
そんな少年の運命を決めたのが、HP-65、
ヒューレット・ハッカード社のプログラミングが
できる電卓との出会いでした。
プログラムに魅せられ、それを独学で学ぶと
ゲーム作りに没頭していきます。
そして完成させたゲームを日本のヒューレット・
ハッカード社の代理店に送ると、受け取った代理店は
仰天、「札幌にとんてもない高校生がいる」と噂になりました。
岩田さんは東京工業大学を卒業後、
大学時代のバイト先でもあった
ソフトウェア開発会社のHAL研究所に入社。
入社して1年後の1983年に任天堂製ファミリー
コンピューターと出会い、「ピンボール」、
「ゴルフ」、「バルーンファイト」といった
初期のゲームソフトの開発に関わります(当時24歳)。
同社はゲームソフトの開発により規模を拡大し、
岩田さんは30歳で取締役開発部長に就任。
その後、1992年に売上不振、投資の失敗から
HAL研究所が事実上の倒産に陥ると、
32歳の岩田さんは代表取締役に就任しました。
再建支援のため名乗りを上げた任天堂の当時の社長山内溥氏が
再建支援の条件に出したのが、「岩田聡を社長にすること」
だったためです。
岩田さんは代表取締役として高い経営手腕を発揮。
「星のカービィー」、「MOTHER2」、
「大乱闘スマッシュブラザーズ」などのヒット作を
送り出し、わずか6年で15億円もあった負債を完済、
見事に再建を果たしました。
岩田さんが任天堂に入社するのは、2000年、
40歳の時でした。
任天堂の社長山内氏の熱烈なラブコールで
取締役経営企画室長として招き入れられます。
任天堂の復活を託された男
2002年、任天堂に衝撃が走ります。
当時の社長山内氏が岩田さんに
社長の座を譲るというものです。
これまで任天堂は同族経営が続いており、
山内氏も3代目社長。
100年続いた同族経営をやめ、まったく血縁関係のない
入社2年目42歳の岩田さんに社長の座を譲るという
異例の決断でした。
このとき、任天堂は業界第3位と低迷、
首位のソニーだけではなく、マイクロソフトの
XBOXの後塵を拝していました。
岩田さんが取り組んだのは、当時ゲームに関心が
薄い大人や女性層を開拓することでした。
ゲーム人口の減少を抑え、ゲーム人口の裾野を
広げようとするゲーム機の開発です。
その第1弾となるのが、2004年発売の「ニンテンドーDS」、
さらに充実した機能を搭載した「ニンテンドーDS Lite」を
2006年に発売し、そのソフトとなる「脳トレ」などのゲームは
今までになかった楽しみ方が受けて大ヒット。
ニンテンドーDS・Liteは世界累計販売台数が
7754万台となりました。
そして2006年12月、据え置き型ゲーム機「Wii」を発売。
直感的な操作が可能なリモコン型コントローラーを
採用したことで人気となり、世界累計で約60週で2000万台を発売。
これは同時期発売のソニーの「プレイステーション3」に
大きな差をつけることになり、任天堂はついに13年ぶりに
ゲーム機市場首位への復活を果たすことになりました。
岩田さん46歳の時のことです。
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これからの任天堂
今後、竹田玄洋専務取締役と宮本茂専務取締役の
2名が代表取締役になるということです。
ここ数年の任天堂は、ゲームができるスマートフォンの
台頭などで業績が低迷していましたが、15年3月期決算では
営業利益を4期ぶりに黒字転換させています。
今年3月にはディー・エヌ・エー(DeNA)と
資本業務提携を締結したと発表し、
スマホゲームへの参入を本格化させるなど、
新たな事業展開が期待されています。
これからの任天堂もこうあって欲しい、
最後に岩田さんの言葉を一つ紹介させてください。
「社員に『ありえない』というところまで
考えていいんだと伝えたい。そして今後も、
任天堂がそういう会社でいられたら
カッコいいなと思いますね」
岩田さん、今までお疲れさまでした。
ゆっくりお休みください。